「……今、なんて?」

自分が助けたという少女はなんと言った?
思いがけない発言にはっきりと聞こえた筈なのに脳が上手く働かなかったみたいで。思わずそう聞き返してしまったけど。
「それが、記憶が」
「記憶が?」
「ないんだそうです。」
なんてことだ、聞き間違いなんかじゃなかったらしい。
目の前の人物が目を丸くして驚く姿を見て、さっきの自分もこんな表情をしていたんだろうな…と思った。
だって記憶喪失なんて人にそうそう出会える訳じゃないだろうし、
たまたま助けた少女が記憶喪失だったなんて誰が想像するだろうか。青天の霹靂である。
先程の少女とのやりとりを思い出す。
自分が記憶喪失だと告白した時のは涙目だった。
それを見ただけで、もしかしたら嘘ついてるんじゃないか、なんて勘ぐりは直ぐに吹っ飛んだ。
海に投げ出される間に、少女の記憶を奪ってしまうような、想像もつかない何かあったんだろうか。
それとも漂流した時の一時的なショックか何かか。
あと一つ考えられるとすると、少女が何かの事情で嘘を付いている。
彼女の様子を見ているとそれはなさそうであるが
あの動揺が全て演技だとしたら、さぞ一流の役者だ。
目の前の人もそれを危惧して、眉を潜めて考え込んでいる様子である。
「お前はどう思う?」
「彼女が、どこかの間者だとお疑いなのでしたら、
僕個人の考えでは、ないと思います。」
「成る程な」
鋭い視線を怯まずに受け止める。
彼女の体は軍人として鍛えられている自分達のそれとは全く違って、年相応の平凡なものだった。
訓練のせいですっかり豆で節くれ立った指と、少女の小さな手を比べてみても
まるで住む世界が違っていたことを実感させる、白く滑らかな指で、
先ほど水を飲ませる為に介抱した時も、うっかり折ってしまいそうで内心ひやりとしたものだ。
少女の状況から判断出来ることを話し、結論として、ただの漂流者であるだろうという見解を伝えると、
もう一度、成る程な、と男は頷いた。
本心から言うと、客観的に判断した事実からだけではない、もっと直感的なもの。
曖昧で、何の根拠もない感情が、少年の心に燻っていた。
まだあんなに年端もいかないだろう少女が。
とはいえ自分よりは少し年上のようだけど。彼女の境遇に抱いた感情を、同情、と言う。
最も偽善的で、自己満足でしかない感情だ。
自分が助けたのに、このまま放り出してしまうのも無責任だという責任感に埋めてしまおうと思った感情。
どうせお見通しの、揺れ動く隠しきれない動揺に、この男はどう答えるのだろうか。
一番の理由は、他人事には思えない事情が自分にもあるから。
だから、力になりたい。
そう思ってここにきた。ガイエン騎士団長の部屋。目の前にいるのは団長のグレンだ。
はここで騎士団員になる為に訓練生をしている。
一介の訓練生がおいそれて話しかけていい相手ではないが、は彼に特別に目をかけてもらっている。
そのことに対して少し申し訳ないと思いつつ、
ただの訓練生であるに対しても分け隔てなく接する彼が団長として島中の人々から尊敬され、
人望もあることは疑いようのない事実であり、の憧れの人物でもあった。
団長として、どんな決断を下すのか、じっとその答えを待つ。

「そうか、それは困ったな。」

そう言って苦笑しながらやはり何か探るような目つきでを見る。
「で、君はどうしたいんだ?」
「俺は……、の力になってあげたいと思っています。」
グレンの顔には笑顔が浮かんでいるものの、瞳は真剣だ。大勢の団員を纏めあげてきた強さと厳しさが、そこにはある。
普段は人の良い人であるが、騎士団の為となれば誰よりも厳しく、時には冷酷な判断も下す。
私情は挟まない、いくら可愛がられているも例外はない、隙を見せようものなら一瞬で返り討ちにあうだろう。
正しい判断を下し、正しい道へと導くのが団長としても役割である。
その瞳に負けじとしっかりと彼は告げた。
には帰るべき所がありません。帰る場所が見つかるまでここに置いていただけませんか?」
の瞳も真剣だ。グレンは の数少ない理解者でもあり、彼そのものの人柄も買っていた。
そんなが少女にここまで肩入れする理由も承知している。
暫く、澄んだ蒼い瞳を無言で見つめていたが、やがて今度は本当に心からの笑顔で応じた。
「わかった。許可しよう。彼女に訓練生は辛いだろう、
そうだな……フンギが人手が足りないとぼやいていたから厨房に入ってもらうとしよう。」
「ありがとうございます!」
「ただし」
グレンは再び真剣な表情を見せる。
「これから先、責任は全部お前が持て。
記憶がなくなった彼女はこれから苦労することだろう。
だが、一度関わったからには何があっても最後まで彼女の助けになれ。
それが騎士団の一員としての役目であり、何よりも一人の男としての責任と誇りだ。」
「はい。」
の揺るぎない返答を受け取ると、今度はニヤリと意地の悪い笑みで、
「聞くところによると血相変えて少女を運んできたそうじゃないか。」
あのいつも飄々としたが。血相を変えるなんてさぞ見物だったろうに。
「一刻をあらそう程衰弱していましたので。」
「そうか。」


食えないな、と思ったのはどちらの方だったか。









programma1-2 incontro ー出会いー









!」

グレンの部屋を出てから真っ先にのいる部屋に向かったは、扉を開けた瞬間に固まった。
「何……してるの?」
部屋に入ってから真っ先に目についたのが、の寝ているベッド、ではなくその横の窓。
いつの間にか開かれた窓からは心地良い風が入り込み、暖かな日光と共に部屋中を清涼な空間に変えていた。
遠くで海鳥の鳴く声が室内にも届く、のどかな昼下がり。
はためく白いカーテンが空を泳ぐ雲のように伸びやかに。
いたって普通の窓なのだが

「……あ」

只一つ違和感があるとすれば、その窓に、ベッドで寝ているはずの少女がいて、
部屋に入った途端固まった同様、その体勢のまま固まっていた。
まさかここで人が入ってくるとは思わなかったと、間抜けな表情でと見つめ合うこと数秒。
当人には数十分時が止まったかのように思えた数秒。

その、窓の縁に片足をかけ両手は窓の両側に、さながら泥棒のような、なんとも情けない体勢のままで。
絶妙なタイミングであると言わざるを得ない。

絶妙且つ、一番見られたくない人物に、一番見られたくない姿を見られたのである。
固まった少女の顔はみるみるうちに蒼白になった。お互い言葉が出てこなかった。
でも言いたいことは一緒である。
瞬間。
「うわっ」
「危ない!」
金縛りを解いたのは少女の方であった。病み上がりの体で、保ち続けられる体勢ではなかった。
止まった時が再び動き出した瞬間、
動揺の為かバランスを保てなくなったは反動で前のめりになって窓の外側に飛び出しそうになった。
それを危機一髪、が抜群の反射神経でを引っ張り、頭から地面とご対面、という事態は免れる。
いくら二階とはいえ、もしそのまま落ちていたら只ではすまなかっただろう。
思わぬ衝撃に、声も出ない。
どうしてこうなった、混乱は動揺を呼ぶばかり。
首を少し傾けると、ミルクに溶けた紅茶のような髪が視界を覆った。

「っつ……!!」

そのままをクッションにする形で倒れたは下敷きにしたのうめき声を聞き、慌ててその場から退いた。
自分と同じくらいか少し小さい少年を下敷きにしてしまって、もの凄く罪悪感を抱く。
「ご、ごめんなさい!!どこか、」
痛めてない?声が情けなく上擦った。
突然の事に驚きを隠せないだったが、事態を飲み込むように数度瞬きをして、
体をゆっくりと起こしながら現在の状況を作った張本人である少女に向き直り
「体はもういいの?」
「はいお陰様ですっかり。自分自身驚く程脅威のスピードで回復しまし、た…」
そのせいでこんな事にもなっちゃったけど、語尾が段々と小さくなっていくに苦笑する。
「そうみたいだね。
ここから出て行くつもりだったの?」
確信を突く直球な質問にはドキリとした。確かにあの状況を見れば誰でもそう思うだろう。
「……これ以上お世話になるのも悪いと思って。何も言わないで出て行くのも悪いとは思ったんだけど。」
「行くあてはあるの?」
「えっと」
確かに行くあて所かここが何処かさえもわからない状況である。
「とりあえず、生きてさえいればどーにかなるかな…なんて……。」
自分でも無茶なのは承知の上なのだ。そんなの様子を見て、は視線を窓の外に向けて言った。
「今、ここの団長に会ってきたんだけど」
「団長?」
という少年は一見普通の少年なのに、団長なんていう人物に簡単にあえるような身分なのか疑問に思うであったが
「君をここに置いてもらえるよう頼んできた。」
「はい?!」
目の前の少年は何を言っているのだろうか。
「ちゃんと了承も得た。だから此処にいてもいいんだよ。」
信じられない。
「うそ、私の為にわざわざ団長に………?」
呆然とするにっこりとは宥めるかのように優しい微笑みを浮かべ、そのまま頭を優しく撫でる。
「団長はとてもいい方だ。俺だってこれで君を放り出したら目覚めが悪いし。
どう?このままここでお世話になったら?
もし君がここの近くの人間だったら、誰かが探し探しに来てくれるかもしれないし、
下手に動くより、此処の方が情報も入るだろう?」
だから、彼が戻ってくる前にここから抜け出したかったのだ。
の優しい声音に思わず頷きたくなる衝動に駆られる。
だけど
「どうして見ず知らずの私にここまで?」
してくれるというのだ。世の中には自分の利益を顧みずに他人に優しく出来る人なんてそう多くはない。
そもそも不審人物でしかない自分の状態を知っているからこそ、
軍用拠点となるここに保護されていると聞いた時点で、直ぐにでも立ち去らなければならないと思った。
記憶がないというのに、まるで自分は犯罪者だったのではと思う程に、去らなければと、何かが告げていた。
なのに目の前の彼は自分にここまでしてくれる。
どうしてだろう
駄目だ。このままでは……
他人の好意は嬉しい筈なのに素直に受け入れられない自分がいた。受け入れられないのではない、怖いのだ。
他人に優しくされることが?
自分の名前以外全く思い出せることがないのに、心の奥がざわざわする。
心の中の何かが揺れ動く。
と同時に不安と疑問が生まれる。
私は何かを恐れている。
それはきっと
開けなくてはいけない扉の向こう側に存在する。

気持ちは有り難いけれど、断らなければ、と意を決して
「ほうっておけなかったんだ。」
が突然口を開く。
「え?」
「俺も似たような境遇だから」

が言っているのは自分が問いかけた事に対してだと気づき、は再び固まった。
直感でこの告白はあまり良いものではない、と感じた。

「捨て子だったんだ。」

その時、彼がどんな表情をしていたか、俯いていた為にわからなかった。
だけど、そう告げた時の声は酷く憂いを帯びていて心が動揺した。誰にも除かせてはいけない感情だ。
普通なら誰にも知られたくない事を、ましてや初対面のに告げた
頭がクラクラする。
今のには彼にかける言葉も見つからない。
は只の同情からここまでしてくれたのではなくて。
自分とを重ねているのならどうして断ることができるだろうか。
深い海のような瞳が真っ直ぐ促してくれる。
昔から、この手の瞳には弱いのだ、と思う。
ならば
「お世話になってもいいですか?」
「うん、喜んで」

それは恐る恐るではあったが、不思議と嫌ではない感情。彼から吹く暖かい風を受け止めてみよう、と思った。

信じてもいい?

もう一度、今度は失敗しないように。

ポトリ、と心の中で何かが落ちた気がした。







「どこに行くんですか?」
全く初めて歩く広い廊下を物珍しげに見渡し、そのまま視線を目の前を歩くに向けた。
さっきから挙動不審かもしれない。そう思いながら疑問を投げかける。行き先はもちろん知らされていない。
「もう大分動けるみたいだから着いてきて。」
窓を意味ありげに見ながらそう言われ、咄嗟にその言葉に含まれた意図に顔が熱くなったのは気のせいにして、
現在、に連れられている最中だ。
何処に連れて行かれるのかという不安な気持ちもあるが、今はそれよりも見慣れない建物の方に目を奪われる。
キョロキョロと目を忙しく働かせて落ち着かない様子の自分はやっぱり挙動不審だ、と心の中で訂正した。
「うん、もうそろそろ着くよ、あ、ここ。」
突然立ち止まったに、心ここに在らずだった は衝突しそうになるのを堪えた。
ちょっと苦しい体勢をなんとか立て直して が立ち止まった先を見るとそこは
「ここは」
「厨房。」
いやそれは見ればわかる。
食事ならわざわざ厨房に来るはずもないだろう。食堂があるのだから。しかもさっき部屋で食事を済ませたばかり。
困惑気味のは中に入るよう促した。

は料理出来る?」

中に入るとそこは紛れもなく厨房で。そろそろ夕時なのだろう、夕食のいい匂いが漂っている。
「り、料理」
世話になるのであれば、何もしないわけにはいかない、そういう気持ちを酌み取ってくれたのだろう。
どこまでも優し配慮には涙がでそうだ。
だけど
その二文字を聞いた途端、嫌な予感が体中を駆けめぐった。悪寒がするのである。
記憶がなくとも本能が、体が覚えている。なんとなくだけど

記憶喪失で、料理も忘れたとかいう言い訳は果たして許されるのか

「?」
「いやその、頑張ります!」
そんな期待を込めた瞳で見つめられたらNOなんて言えるわけがない。記憶が色々と曖昧だが、この直感だけは確かだろう。
良かった、と微笑むから目をそらし、すぐ傍の窓から空を眺めると涙が出そうになった。
すぐ横で玉ねぎを切っているせいだと思いたい。
「そう、じゃあよろしく」
そう言って厨房の責任者か何かに話をつけに行くの背中を見つめ、こっそりとため息をついた。

前途多難、かもしれない。

                                                           2006.4.11
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